現代を透視する為には、当然まず現実を直視しなければならない。 現代は紛れも無く、高速で移動する夥しく際限の無い情報に取り囲まれた時代である。 それら毎日吐き出される情報を排泄するテクノロジーの発達は、驚きで目を見張るばかりだ。 例えば、 現代のライフステージに欠かすことの出来ない携帯電話とコンピュターの普及は、現実の距離感を無くし、著しく嗜好と人間の選別を可能にしたと言えよう。 人々は観念の中で現実を肥大化させ、実際の世界との乖離と分断を導き、現実を物語化し抽象化させることが可能になった。 平行するように遺伝子工学の発達はヒトの全ゲノムのおおまかな塩基配列を明らかにした。 このことは、人間も特殊な存在では無く、生命の設計図から構成された<もの>として捉えられる。 ものとしての人間は、装置とみなされ記号と化し利用価値の函数に還元される。 このような側面から見れば、 危険なことに現代という時代は、人間がますますものに近づきつつある時代と言える。 しかし、情報の摂取を一旦休み、現実の街に繰り出すと、また違う側面が見えてくる。 生き、呼吸し、もがき苦しみ、笑い、泣き、そして協力しあう人間の姿であり、あたかも有機体の如く生成発展、衰退消滅を繰り返すビルの姿であり、それらの容器としての呼吸する生きている街の姿である。ここで明快に言えることは、実は街は有機的な結合を繰り返す、ある種の生き物なのである。 生き物であれば、当然やがて死を迎える。 しかし街は死ぬ訳にはいかないのだ。 そこで生活する人間がいる限り、衰退したとしても死ぬ訳にはいかない。 再生され、また新たなる歩みを踏み出さなければならないのだ。 |