東京の秋
渋谷を表現するに最も適した言葉、それは<ごった煮の街>という言葉ではないだろうか
何でもありの街。誰でもが楽しめる街。百面相の顔を持った街。


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ある時はラフなスタイルの若者の街であり、ある時はフォーマルできめたビジネスマンやOLの街であり、ある時は幸福顔の家族連れの街であり、ある時は風俗に勤める人の街であり、ある時はいかしたアベックの街であり、ある時はブランドで身を包み込んだモデルの街であり、ある時は公園のビニールハウスに棲みついたホームレスの街であり、ある時は女性に狙いを定めたいかがわしいスカウトの街であり、ある時は遊び金欲しさにうろつき廻るコギャルの街であり、ある時は薬の売人のヤーさんの街であり、ある時はスターを目指す街頭ライブの街であり、ある時は暴走族の街であり、ある時はプロデューサーの街である。そしてある時は街宣カーでがなり立てる右翼の街であり、そしてある時は、ギラギラと目を輝かせ親爺を狙う親爺狩のちんぴらの街である。



人の群れはどの時間帯も間断なく続く。
モビリティ(流動性)に充ち溢れた街。
エネルギーに満ち溢れ音楽が鳴り響く街。
人間のごった煮状態。エロスと情熱が溢れた街。夢と希望に溢れた街。音楽やファッションの発信地。
倦怠と悔恨が溢れた街。犯罪と敵意に溢れた街。

この街が見てくれの良い近代的ビルの街であることに異存はないが、古き良き面影や異国情緒溢れた迷路も数多く残している不思議な街だ。路地裏には排斥物が散らばり、分泌物の匂いが漂う街。
古びた下町の香りを僅かに残し、時間が止まったような路地裏の光景。

正邪の表情を隠し持った街。美と醜が巧みに同居した街。
超近代的ビルの陰に沁み付いた怨念の街。
夜を忘れた不夜城の街。
怒涛のように情報が交錯する街。
特定のビルの審美感や機能性、実用性のみで象徴化できない混沌とした巨大都市。

一体、どれだけの言葉を書き連らねれば、この街を表現できるのだろうか。
常に小刻みに表情を変貌させていく、あたかも有機体のようなこの街の変化を定義することは、到底、無理なのではないか?
筆舌できないほどのエネルギーの塊の街。



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ハチ公前は色とりどりの服装の待ち合わせの人々で埋められている。
年代層もまちまちである。恋人を待つ者、友人を待つ者、家族を待つ者、愛人を待つ者。
目的も無く、この場に坐っている者。携帯電話でメールをやり取りしている若者。
前方には3台の巨大ディスプレーが絶え間なく情報を発信する。
この変化の激しい大都会渋谷にこれほど相応しい光景があるだろうか?
僕は仕事に疲れると、この場に佇み何十分もこの映像を見入っているのが好きなのだ。
3台のプロジェクターから吐き出される映像を同時に見る。
この人工的に創り出された空間は、渋谷駅前のシンボルであり、極めて現代的な都市に相応しい巨大装置である。
僕は雑踏を泳ぎ回る熱帯魚のようにこの風景の中に溶け込んでしまうのだ。
そして時を忘れる。
暫くこの光景に浸っていると、
あたかも自分が若者に逆戻りしたような生きてる感覚を再生できるのである。
それは、街に溢れるエネルギーを知らないうちに自らが吸収しているのだろうか。



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さて、
●この街の特徴としてロケーションの良さがまず挙げられるだろう。
関東大震災後、下町から移った人々によって造られたこの街にはJR線、東横線、井の頭線、半蔵門線、田園都市線の駅が交錯している。
それぞれの駅から大量の人々が吐き出されてくる。
この人々を吸収するこの街は、既に繁華街としては、長い歴史を有する街なのである。
この地で繰り広げられた東急デパートと西武デパートの熱いバトルがこの街の開発に大きく寄与した事実は無視できない。このバトルが街の活性化の推進力となったのだ。
既に街自体はこれらの巨大資本から独立し独り立ちしているようだが・・・

☆☆★★☆☆


●この2つの資本が植え付けた先行投資的意味を持つ文化の移植の意義は無視できない。

●街には独自の文化が芽生えなければ、成長することが不可能なのである。

●街にはアナーキーな独立性が無ければ人を惹きつけることは出来ないのだ。

●街は進化しつつ後退しなければならない。この際どいアンビバレンツの綱渡りが人々の快感を呼ぶ。

●街は雑多な魅力を持たなければあらゆる年代層を吸収することは出来ない。

●やはりここでも街は巨大な劇場なのである。

●匿名性の保持ー-巨大な都市が持つ一番の魅力はこれに尽きる。

●逆説的に言えば、合理化、効率化の進んだ社会構造の中では、無駄に意味が見出されるようになる。

●創意工夫は他社との差異化の熾烈なる闘いの中でしか生れない。

●街文化の大衆化とは獣道を造る事にある。

●人は大きな流れに添って進む。その流れを堰きとめるダムを造った者が勝つ。

●進歩発展することが正しい判断の時代は既に終焉した。

●水は方円の器から出ることは出来ない。あなたが穴を開けない限り。

●街はひとつの店では成立しない。同化しつつ異化作用をもたらせなくてばならない。


☆☆★★☆☆


さて、あなたも
大衆のハートを開く鍵をこの街で捜してみないか。
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現代を透視する為には、当然まず現実を直視しなければならない。
現代は紛れも無く、高速で移動する夥しく際限の無い情報に取り囲まれた時代である。
それら毎日吐き出される情報を排泄するテクノロジーの発達は、驚きで目を見張るばかりだ。
例えば、
現代のライフステージに欠かすことの出来ない携帯電話とコンピュターの普及は、現実の距離感を無くし、著しく嗜好と人間の選別を可能にしたと言えよう。
人々は観念の中で現実を肥大化させ、実際の世界との乖離と分断を導き、現実を物語化し抽象化させることが可能になった。

平行するように遺伝子工学の発達はヒトの全ゲノムのおおまかな塩基配列を明らかにした。
このことは、人間も特殊な存在では無く、生命の設計図から構成された<もの>として捉えられる。
ものとしての人間は、装置とみなされ記号と化し利用価値の函数に還元される。
このような側面から見れば、
危険なことに現代という時代は、人間がますますものに近づきつつある時代と言える。
しかし、情報の摂取を一旦休み、現実の街に繰り出すと、また違う側面が見えてくる。
生き、呼吸し、もがき苦しみ、笑い、泣き、そして協力しあう人間の姿であり、あたかも有機体の如く生成発展、衰退消滅を繰り返すビルの姿であり、それらの容器としての呼吸する生きている街の姿である。ここで明快に言えることは、実は街は有機的な結合を繰り返す、ある種の生き物なのである。
生き物であれば、当然やがて死を迎える。
しかし街は死ぬ訳にはいかないのだ。
そこで生活する人間がいる限り、衰退したとしても死ぬ訳にはいかない。
再生され、また新たなる歩みを踏み出さなければならないのだ。
街から時代を読む。
■神秘的で不思議な雰囲気が漂う■
■ガラスが周囲の光景を反射させている■
■マネキンとは俄かに信じがたい素敵なアベック■
■若者を引き寄せる渋谷の魔力■
■クリスマス・ムードのショーウィンドウ■
(注)写真は少し古いものです
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