■アートの未来の姿を想像する時に、グリッチアートとフランシス・ベーコンが重要なキーになる予感がある。 その共通項は何か? それは、どちらも共通して〈壊れている〉ということだ。 グリッチアートはデジタルコードやデータが崩れることで偶発的に発生する美しい(?)画像であり、フランシス・ベーコンは汚く不気味なものと感じられるものに対して壊れた(あるいは歪曲された)美(?)を創造している。 しかし、これらは本当に美しいものなのだろうか? 一般の人間の感性にとって衷心から〈美〉と感じられ、目に美しく映じるものなのだろうか? そこには、大いに疑問がある。 にも拘らず、これらに惹かれてしまう感覚は拭い去ることが出来ない。 私には、この崩れた部分にこそ、現代社会で閉塞状態に陥っている人々の感性の解放が秘められていると思うのだ。 周囲には美しいものが溢れかえっている。美しい画像(風景)には見飽きた人々の欲求不満は募るばかりだ。 そんな時、この壊れた(美を解体する)部分が妙に新鮮な驚きと新たなる美を齎すのだと思う。 その美は、時代の人々の心の病んだ部分(琴線)に触れるのである。 以前、私は親子連れの6歳位の子供が道端でカブトムシの死骸を見つけて、それを取り上げて 「これ壊れているよ。」 と親の顔を見て、投げ捨てた場面に出くわしたことがある。 子供にとってカブトムシは死ぬのではなく、壊れるものなのだ。 その感覚に私は、驚かされた。 元々、生き物はいずれ死ぬ運命にあるのだから、機能が停止した状態を壊れていると看做す事も可能かもしれない。 それは、人間にとっても同様だ。 子供達にとって人間は、今や死ぬのではなく、壊れるものなのかもしれない。 これは、時代が作り上げた全く新しい感覚だ。 あるいは、元来人間の心の中に壊れた部分が本質的に存在し、それが顕著に露呈してきたと看做す事も可能かもしれない。 人間は、人間であることを喪失し始めているのだ。 それでは、「人間とは何か?」 それについては今は問わない。 ただ言えることは、美は幾重にも歪曲され形を失い、そして理性を失い、記号性さえ失い無になる。 これからのアートは、その過程を具に表現してゆくことになるだろう。 ************************** ■参考■ ●The Estate of Francis Bacon | Home ●今話題の”グリッチアート/Glitch Art”について |