●Do you believe heaven?



「宇宙が完璧である理由はどこにもない。そしてまた宇宙が合理的でなければならない理由もどこにもない。」
                    
 ------ジュリアン・ハックスレー ------



意識の拡張にとって最も重要なことは、思考の停止だ。
その手段として酒と薬の使用は、脳の中枢神経を刺激し活性化させるが故に効果的だ。
まず我々は魂の深遠を覗き込まねばならない。
そして、その深遠に入り込まねばならない。
真理を悟る為に、狂人の如く深遠の中を彷徨い徘徊するのだ。
そうすると、この世界が様々な次元の異なるレベルから成立していることに気がつくだろう。
「我を見出さんと欲すれば、まず我を忘れねばならない。」(フーゴ・バル)

人間は、元来完璧な生き物であった。
両性具有こそが人間の本来あるべき姿であった。
月と太陽との関係のように、人間もまた女と男に分けられてしまった。
このことは、意識と無意識の分離とも関連する。
肉体と魂の関係とも関連する。
別れたものが、原状復帰を求め、惹きつけ合う。

芸術とは元来音楽的な旋律を伴うものだ。
言葉には元来魂と旋律が篭められていたのだ。
真の芸術作品とは、我々が想像力で創作するのではなく、現に存在するものを見つけだし、形を与えるものなのだ。
それは、ひじょうにプリミティヴなものだ。
しかし犯すことの出来ない絶対的な美を内包している。

「人間の霊は、それが縛り付けられた肉体から解き放たれた時、さらに完全な状態に置かれる。」
                          ---イマヌエル・スエデンボルグ---








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■作品解説■

「芸術は眼に見える詩である」
                ---レオナルド・ダ・ヴィンチ---




僕は夢を見た。
その夢は、睡眠状態で見たのではない。かといって、覚醒状態で見たのでもない。
自らの遺伝子に刻み込まれた情報を紐解くように、原初の残余としておぼろげに遺伝子に記憶された民族としての経験を夢として知覚したのだ。
夢の中での色彩は、透明で且つ固有のものだ。独特の光に満ち溢れている。とはいえ、そこに太陽は見えない。光源が何に由来するものかは、分らない。あらゆる存在自体、そのものが光を発して輝いている。
矛盾した表現であるが、夢の中での映像はあらゆる枠組みから逸脱している。そこでは、蹂躙するべき制約がない。時間も空間もごった煮のように、重なりあって存在する。
たゆたう幽玄なる意識体の無限に連続した連鎖がある。


僕がここで試行していることは、真実の探求ではない。
魂を自由に飛翔させることで、宇宙に映像や音楽として残された残滓を摘み取ることなのである。
それを再現すること・・・・
それこそが、真の目的なのである。
そのヴィジョンを的確に捉えること、それは一種の啓示とも呼ぶべきものかもしれない。
こうした未知の世界の表現に於いて、
我々のイマージュだけで、満足できる作品など作れるものではない。
複合的に絡み合い、もつれ合い、錯綜した情報の数々・・・
その選択は、明らかに偶然性に委ねられるものなのだ。
超意識の捕獲した崇高なる宇宙の象徴的姿態。

僕は想像力を武器として、
それらを表現したかったのだ。

僕は、アラゴンが、「剽窃」行為の体系化と呼んだコラージュという手法で、それを表現しようと考えたのだ。
かつて、フランツ・カフカは、「夢は現実を暴露する」と呼んだが、実は「夢は非現実をも暴露する」ものなのである。
我々が常識と考えている全てがやがて崩壊し、人類は崇高なる心理に目覚めることだろう。
精神は、肉体の衣を脱ぎ捨て、遥かなる悠久の世界へと飛翔するのだ。

我々の存在する世界は、様々な歪みを生じ、三面鏡の鏡像を覗き込むように、どこまでも果ても無く連続している。形而上的世界観を認識する上に於いて、我々が慣れ親しんだパラダイム(枠組み)を援用することは出来ない。
内在的な湧き上がる情念を、外在的な宇宙意識と同調させ、情念が感得したしたものを想像力を駆使し補完し、象徴化された神秘的アレゴリーとして、現出させねばならないのだ。
宇宙の本来の姿を審美的表象に於いて、表現すること。
そこには、言葉の介在による定義など何の意味も無い。


ブルドンの言葉が示すように、

「ただ驚異だけが、美しいのだ。」If it exists, heaven must be a pleasant place as for it.

●僕が想像する天国とは、広大な自然の中で、思い思いに全裸のままくつろいでいる男女の姿と動物や植物や小鳥の囀りに満ち溢れた世界なのだ。
どこまでも果てしなく広がる草原には小川が流れ、そこでは魚達が楽しそうに泳いでいる。
草原には色とりどりの花が咲き乱れ、原色の小鳥達は歌を歌っている。
動物達も、草を食べ、横たわり、人間と共に会話を交わす。

実は、ヒーロニムス・ボッシュの『悦楽の園』の中の「現世」の表現に僕の「天国」のイメージに近いものがあるのだが、僕の考える天国はあれほどエロチックなものではない。
人間にとって、セックスは欠かすことのできない重要なものであるのだが、その本質は遺伝子の継承だけでなく、その行為が生み出す快楽にあることは、明白な事実であろう。
もし、セックスが苦痛だと感じる人がいたとすれば、その人は本当の意味に於いて、天国を知らない人なのかもしれない。
フロイドがリビドーを性的願望の充足欲求として捉えたのも、人間の深層心理にセックスが及ぼす影響が甚大であることの証でもあろう。

ここで、現世の中で天国を探すとすれば、僕はセックスを介在とした産業の中にこそ、それが隠されていると考えている。
人間とは、理性をもってはいるが、動物であることに変わりは無い。理性が、禁欲を自らに強い、その拘束に雁字搦めになることで、段々と狭隘なる場所に自らを追い込み、精神の安定を失う。
実は、享楽的生き方とは、人間が人間性を解放する処方箋のようなものかもしれないのだ。
フロイドは、、コカインが食欲を抑えたり、筋力を強化したり、精神の覚醒を高めたり、多幸感を生じせしめる性質を持つことにいち早く目をつけたが、コカインが人間の心を開放する重要な役割を担うように、性の奥義を極めることが、同様に人間の精神の飛翔を齎す絶大な効果があることを否定できないのだ。

僕が、エクスタシーの極みに於いて、人間の精神は浄化されるのだと主張したならば、多分、狂人扱いされるであろう。
しかし、もしそこにこそ「天国」が存在するのだと主張したら、どうだろうか?
性を介在にしなければ、我々は天国を知ることは決してできないのだ。
性を介在にしなければ、人を愛することの重要性を完全に理解することはできないのだ。

我々は今では、罪の意識を感じることなく、人を傷つけ、殺すことさえできる。
スイッチのひとつを押すことで、国さえも破壊することができるのだ。
介在として使用されるのは、人工頭脳だ。
この箱は、人を管理することも切り捨てることも、殺すことさえ簡単にできるのだ。
しかし、この箱は快楽を味わうことはできない。
疑似体験することは可能でも、エクスタシーを体験することはできないのだ。
彼は、永遠に「天国」を知ることはできないのだ。

今、我々に必要なことは・・・・
街へ出、そして触れ合うこと。
触れ合い、傷つきあい、感じあい、理解しあい、愛し合い

そして「天国」を知ることなのだ。

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●作品について、一言●


無機物に魂を注入することは可能なのか?
もし、それが可能であるとすれば、魂を注入された無機物は、人間的な思考をすることが可能なのだろうか?

実は、最近僕は面白いことに気がついた。
画像処理の過程で写真に何工程かの処理を重ねている間に、そこによきせぬ顔の画像が現れることだ。
こんな画像を置いたつもりもなく、当然偶発的にそこに生成された画像である。

シュールレアリズムの手法に自動筆記というものがある。
頭に浮かぶイメージだけを頼りにして、瞬間的に物語を作り上げてゆくものだ。
作為的に物語性を排除し、目に見えぬある存在(深層無意識)に身を委ねることで、予測不能な作品を編み出し、その神秘性に重きを置く。

僕もその手法をこのコラージュの作成に使用してみた。
これは、偶然がたまたま産み落とした作品であり、そこに計算は働いていない。
しかし、この作品から色を奪い、セピア色に変換させると、そこに幾つもの顔の画像が現れてくることに気がつく。
たまたまそう見えるだけだと笑う方もおられることだろう。
勿論、僕もそう思っている。


この作品のコンセプトは、人間の深層心理の探求だった。
心の中の闇を探ろうと試みたのだ。
それが成功したかどうかは、ここでは問題にならない。
かって誰も見たことが無い。
そんな作品が出来れば、それが何よりの成功の証なのだ。

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