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どん底亭主の女狂い  石川啄木

---人生の幻想が招いた男の悲劇----

    
   
   浅草の凌雲閣のいただきに
   腕組みし日の
   長き日記(にき)かな

              石川啄木 「一握の砂」より

石川啄木が、極度の貧困と病苦の末、ついに日の目を見ることなく二七歳の短い生涯を終えた悲劇の天才詩人であることは、誰もが知っている。
だが、妻子ある身の啄木が、啄木以上に貧しい生活を送っている妻子のことも顧みず浅草のいかがわしい娼婦達を相手に爛れた愛欲生活を送っていた一面を知る人は少ないであろう。

身長約百五十八センチ、体重約四十五キロの小柄な体にもかかわらず、その女狂いは相当なものだった。
それをこれからお話しようと思うのだが、身につまされずにはいられない話なのだ....


明治四十一年春、作家で身を立てようとした啄木は、年老いた両親と妻子らを北海道の友人宮崎郁雨に託して知人に借金の山をつくり、単身上京したが、たちまち生活に窮してしまう。
幸い同郷であり四歳年長の金田一京助の温かい友情と援助を得て、どうにか生活難から逃れ、文学生活への不安も切り抜けられたが、新詩社の演劇会で知り合い交際を続けていた、てい子という19歳の女がいた上、原稿は書けども書けども売れなかった。

そんな訳で相も変わらず窮乏した日々を送っていたが、翌四十二年三月、24歳の啄木は、やっと朝日新聞の校正係りに就職口が見つかった。
月給二十五円だった。(妻子で十分暮らせる額)
友人宅に預けられたままの遠く離れた家族は、上京したいと催促してきたが、啄木はすぐには呼び寄せなかった。

積もり積もった借金があったし、母と妻の折り合いが悪くて煩わしかった。
それに文学思想上の悩みも抱え込んでいた。
その上、函館の代用教員時代に知り合った橘智恵子を恋しく思っていた。
それにも拘わらず、自分の作品はちっとも認められなかった。

それやこれやで自暴自棄になった啄木の足は、自ずと浅草十二階下の私娼窟へ向かうのだった。
その頃(明治四十二年四月七日?6月十六日)のことは、肝を潰すほど赤裸々に、日記に書き残されている。
さすがに手内職をして家庭を支えている妻を憚って、ローマ字にしてあったので、これは後に『ローマ字日記』と呼ばれるようになる。

一八歳の売春婦マサと一夜を過ごした四月十日の日記は最も長く、余りに凄まじい露骨な性描写に戦慄を覚えるほどだ。
あの世に名高い薄幸の詩人石川啄木のイメージからは、およそ想像もつかない衝撃の告白なのだ。
少し抜粋してみよう。

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いくらかの金のあるとき、予は、なんのためろうことなく、かの、みだらな声にみちた、狭い、きたない町に行った。
予は去年の秋から今までに、およそ13-4回も行った。
         (中略)
予の求めたのは、暖かい、柔らかい、まっ白な からだだ:
からだも心も とろけるような楽しみだ。
しかし それらの女は、やや年のいったのも、まだ十六ぐらいの ほんの子供なのも、どれだって、なん百人、なん千人の 男とねたのばかりだ。
顔につやがなく、はだは冷たくあれて、男というものには なれきっている、なんのシゲキも感じない。

強きシゲキを求むる イライラした心は、そのシゲキを受けつつあるときでも、予の心を去らなかった。

予は女のまたに手を入れて、手あらく その陰部をかきまわした。
しまいには 五本の指を入れて できるだけ 強くおした。
女はそれでも 目をさまさぬ:
恐らく もう陰部については なんの感覚もないくらい、男になれてしまっているのだ。

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この後は、差し障りがあるので省略する。
売れない作家の身である故に、家族に対するやるせない気持ちは、あったことだろう。いつまでも家族を放って置くわけにはいかない。
その扶養の義務に対する呵責の念と、文学上の懊悩とが重圧となって、一種の脅迫観念に苛まれ、絶望に陥る。
虚無的となった彼は、苦しみのみが多い人生と家庭の桎梏から、例えほんの一時的にせよ逃れたいと渇望し、なけなしの金を女に蕩尽してしまうのだった。

この夜買った女は、一八歳にして既に年増女の荒く荒んだ膚をしており、たった一坪の狭い部屋にこもる異様なにおいにイラつきながら、女の股を奔るのである。
しかし満足を得られなかった啄木は、その後に深く後悔するように書きなぐる。

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病気をしたい。この希望は、ながいこと 予の頭の中にひそんでいる。
病気!
              (中略)
ーーーああ、あらゆる責任を 解除した 自由の生活!それらが それをうるの道は ただ病気あるのみだ!

死だ!死だ!わたしの願いは これ たった ひとつだ!ああ!

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会社で「2時間も3時間も 息もつかずに 校正する」毎日では、思うように小説も書けなかった。
疲れ果て、すべてのものに興味を失い、質屋通いをしてはヨシワラへ行ったりして、金と時間を浪費するのだ。
しまいには電車賃さえなくなって、五月一日に会社で月給を前借した。
その金で、質に入れてしまった友人の時計を取り返すこともせず、溜まった下宿代を払うこともせず、早速女郎買いにアサクサへ直行してしまうのだ。

  ”行くな!行くな!”と思いながら 足はセンゾクマチへ向かった。

こうなると、啄木も病膏肓というか、理由の如何を問わず生来の女好きであったと思わざるを得ない。
上京以前にも北海道の釧路でも小奴という馴染みの芸者がいて、啄木はかなりの御執心だった。
釧路時代は、連日仕事が終わると料理屋で芸者をはべらせていたほどだ。
その忘れようとしても忘れられない小奴に瓜二つのハナコという女にこの夜、袖を取られる。
月明かりの下、菓子売りの薄汚い老婆に導かれて怪しげな裏長屋へ入って行く。
その時、
 「浮世小路の奥へきた!」
と啄木は思った。
ハナコは先に来ていて、いきなり彼に抱きついてきた。

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狭い、汚いうちだ。
よくも見えなかったが、壁は黒く、たたみはくされて、屋根裏が見えた。
そのみすぼらしい有り様を、長火鉢のネコ板の上にのっている豆ランプが おぼつかなげに 照らしていた。
古い時計が ものうげに鳴っている。
            (中略)
 かすかな明かりに ジッと女の顔を見ると、丸い、白い、コヤッコそのままの顔が薄暗い中に ポーッと浮かんで見える。
予は 目も細くなるほど うっとりとした心地になってしまった。
”コヤッコに似た、じつに似た!”と、いくたびか 同じことばかり 予の心はささやいた。
            (中略)
ふしぎな晩であった。予はいままで いくたびか女とねた。しかしながら 予の心は いつもなにものかに 追ったてられているようで、イライラしていた、自分で自分をあざ笑っていた。
今夜のように 目も細くなるような うっとりした、ヒョウビョウとした気持ちのしたことはない、
            (中略)
そしてまた、ちかごろは いたずらに不愉快の感をのこすにすぎぬ交接が、この晩は2度とも 快くのみすぎた。
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鬱々たる『ローマ字日記』の中で、この場面は珍しくほのぼのした情感に満ち溢れ、小説のような味わいを以って、読む者を魅了する。
「夢の1時間」と啄木が記している位だから、よほどこの十七歳のハナコが気に入ったのだろう。
この夜、若い女の、とろけるばかりに暖かい肌と愛くるしさに、初めて啄木は心身共に満ち足りて、安らぎを見出すのだ。
借金を返す為のお金を使ってしまったにも拘わらず、
  「ふしぎに予は、何の後悔の念も起こさなかった。」
とある。
きっと啄木にとっては、何ものにも換え難い至福のひとときであったのだろう。

だが、十四日には「2度ばかり 口の中から おびただしく血が出た。」
啄木は、再び虚しさを覚え、自殺しようかとの思いが頭をかすめる。
親友金田一京助に十六日、「予は都会生活に適していない。」
と、真面目に田舎行きの話を持ちかけている。

  いなか!いなか!予の骨をうずむべきところは そこだ。おれは都会のはげしい生活に 適していない。

五月一八日から三十日までは、病床にあって日記は休んだ。会社も休んだ。
六月一日体が回復するとすぐ、また会社から月給を前借りしてアサクサへ行き、次々に二人の女を買っている。
ふしだら啄木、夜のアサクサ、今宵の相手はいつぞやの......
活動写真を見、西洋料理を食べてから、「若い子供らしい女とねた」後で、精力的にも、あの忘れじのハナコの所へ行くのだ。
家族が上京してくる前に、もう一度、ハナコの体のぬくもりに顔をうずめてみたかったのだろう。
ハナコと寝た啄木は、再び陶酔する。


明治四十二年六月十六日、啄木が上京した時から一年二ヵ月経って家族は啄木を追って函館から上京してくる。
啄木は本郷弓町二丁目一八番地の新井という人の営む床屋の二階にふた間を借り、家族と一緒に住むことになる。
とはいえ、相も変わらぬ母と妻の不和確執に、啄木の心は重く沈むのだった。
救いようの無い貧苦の中、妻の節子は間もなく子を孕むが、秋に生まれたばかりの長男真一は生後二四日に亡くなった。
  
 「夜おそく勤め先よりかへり来て 今死にしてふ子を抱けるかな」

は、その時の歌だ。
明治四十四年の幸徳秋水事件に深い関心を示した啄木であったが、間もなく啄木自身罹病し、その状態の中で『はてしなき議論の後』他九篇の詩を作った。
しかし相次いで妻も胸を病み、やがて母も病の床に臥す事になる。
病人ばかりでは二階暮らしも不便で、啄木一家は小石川久堅町に移り住む。
移るとまず母が死亡。
重症の身を押して母のなきがらを送り出した失意の啄木は、気力をふるいおこし、未刊の歌稿の出版を土岐哀果に頼み、あとを追うように一ヵ月遅れて、明治四五年四月十三日、永眠した。
二七歳の若さだった。

この時の歌集は、哀果によって『悲しき玩具』と名づけられた。
啄木の葬儀は、友人土岐善磨のはからいで、浅草松清町の等光寺で営まれ、ここに納骨されたが、節子未亡人の意志によって、後に遺骨は函館に移された。



わずか二七年の短い生涯の中で、異常なまでに生命を燃やしつくした啄木にとって、四年間過ごした東京とは、そして浅草とは一体何だったのであろうか.......。
現在等光寺(西浅草1)境内の片隅に、
ひっそりと石川啄木の歌碑が、寂しげに風に吹かれて佇んでいる..........


浅草の夜のにぎはいに
まぎれ入り
まぎれ出て来し さびしき心


       『一握の砂』第一章「我を愛する歌」より









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