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●ネクラの大将 芥川龍之介【その一】

--死体と共に歩んだ歯車人生---



人生は「選ばれたる少数」を除けば誰にも暗いのはわかっている。しかも亦「選ばれたる少数」とは阿呆と悪人の異名なのだ。
                    
「暗中問答」より





分裂病的な暗い世界観にとりつかれた、新理知派・新技巧派の代表作家芥川龍之介は、昭和2年7月24日未明、雨の音を聞きながらヴェロナールとジャールの致死量を飲んで自殺した。
36歳だった。枕頭には聖書、懐中には遺書が残されていた。

訃報を受けて駆けつけた洋画家の小穴隆一は「おれが死んだら直に死顔を小穴君に描かせてくれ」という芥川の言葉に従い、10号の画布に木炭で芥川の死顔の下図を作った。
やがて電報を受け取った菊池寛、室生犀星らが次々に駆けつけた。
遺書の中にあった「或旧友へ送る手記」が、集まった新聞記者を前に久米正雄によって朗読された。



誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。
それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであろう。
僕は君に送る最後の手紙の中で、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。
            (中略)
自殺者は大抵レニエの描いたように何の為に自殺するかを知らないであろう。
それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。
が、少なくとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。
何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

                                           「或旧友へ送る手記」


 
「或阿呆の一生」の中に、大体この将来に対するぼんやりした不安は解剖され、書き尽くされている。
但し、芥川の上に影を投げた封建時代のことだけは故意に触れていない。
その中で芥川は自殺の方法について書きめぐらす....

縊死、溺死、轢死、ピストルやナイフを用いる方、飛び下り自殺、---しかしどれも美的嫌悪をもよおす。
結局、美しく死ぬには薬品を用いるのがよい、という結論に達するのだ。



我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れている。
所謂生活力と云うものは実は動物力の異名に過ぎない。
僕も亦人間獣の一匹である。
しかし食色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失っているであろう。
僕の今住んでいるのは氷のように透み渡った、病的な神経の世界である。
僕はゆうべ或買笑婦と一緒に彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ
「生きる為に生きている」
我々人間の哀れさを感じた。
若しみずから甘んじて永久の眠りにはいることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違いない。

                   ------「或旧友へ送る手記」


遺書としては至極沈着冷静な筆致ではあるが「氷のように透み渡った、病的な神経の世界」と書かれている通り、当時の芥川は心身共にボロボロだった。
胃を患い、腸を患い、痔を患い、神経衰弱に陥っていたのだ。
この胃腸障害も神経のせいらしく、食べるとすぐ下痢をしてしまう有り様だった。
体が衰弱して殆ど骨と皮だけに痩せ細った芥川は、薬を頼りに死を目前に控えた一年ばかりの間、やみくもに「点鬼簿」「玄鶴山房」「蜃気楼」「河童」そして遺稿となった「歯車」「西方の人」及び「或阿呆の一生」を次々に書きまくり、自分の心境を折り込めようとしたのである。

しかし何故故に芥川は、こんなに急いで人生を駆け抜ける必要があっただろうか?
斎藤茂吉に宛てた手紙には「この頃、半透明なる歯車あまた右の目の視野に廻転する事あり」と書かれている。
芥川は作家生活を続けている間、常に神経をすりへらし、体も蝕まれ、ついには狂気の世界へと近づいていったのだった。
あわや発狂寸前のギリギリの線に辛うじて踏み留まり、これらの作品を書いたのだった。
振り返ると芥川の一生は、幼い時から発狂の不安に脅かされ続けた一生であった。



 
遺伝、境遇、偶然、----我々の運命を司るものは畢竟この三者である。
                     
「侏儒の言葉」


この言葉の背景を探る為に、芥川の生い立ちがどんなであったか、述べてみよう。
芥川は京橋の新原敏三の長男として、父四十二歳、母三十三歳の両親揃って大厄の年、明治25年3月1日辰年辰月辰日辰の刻に生まれたので、龍之介と命名された。
しかし、いわゆる大厄の年の子は「捨児にしないと育たない」という迷信を担いで、形式的にいったん捨てられた後、実父の旧知松村浅二郎に拾われた。
そして、実母ふくが龍之介出産後7ヶ月位して、突然発狂したため、母の実兄芥川道章の養子となった。



僕の母は狂人だった。
僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。
僕の母は髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたった一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸っている。

                 「点鬼簿」


芥川は幼い頃から無気味に痩せた虚弱体質で、はにかみやすく「磨ぎ澄ました肉屋の包丁にさえ動悸の高まる少年だった」というほど神経過敏で怯えやすく、夢遊病の気があったらしい。
幼くして既に死に対して敏感だったのだから、これは異常児と呼べる。
「或精神的風景画」という副題がついた「大導寺信輔の半生」に、この幼児期の思い出が語られている。



ある朝焼けの消えかかった朝、父と彼とはいつものように百本杭へ散歩に行った。
百本杭は大川の河岸でも特に釣り師の多い場所だった。
しかしその朝は見渡した所、一人も釣り師は見えなかった。
広い河岸には石垣の間に舟虫の動いているばかりだった。
彼は父に今朝に限って釣り師の見えぬわけを尋ねようとした。
が、まだ口を開かぬうちにたちまちその答えを発見した。
朝焼けの揺らめいた川波には坊主頭の死骸が一人、磯臭い水草や五味のからんだ乱杭の間に漂っていた。---彼はいまだにありありとこの朝の百本杭を覚えている。
三十年前の本所は感じやすい信輔の心に無数の追憶的風景画を残した。
けれどもこの朝の百本杭はーーーこの一枚の風景画は同時にまた本所の町町の投げた精神的陰影の全部だった。

                 
                                     「大導寺信輔の半生」



 
●ネクラの大将 芥川龍之介【その二】



 
母親が発狂して養子に出された芥川は、全く母の乳を吸ったことも無く、このことが子供の芥川に劣等感を植えつけた。
ところがある日西洋史の本の中に、羅馬(ローマ)の建国者ロミュルスに乳を与えたのは狼であるという一節を見出してからの芥川は、母乳でなしに牛乳によって育ったことが逆に誇りとなった。
彼はまた家庭の貧困を憎んだ。
自由に本を買うこともできず、夏期学校へも行けず、新しい外套を着ることも出来ない貧困を呪った。
それ以上に、近所で買ったカステラを「風月」の菓子折につめて進物にする家庭を憎んだ。

しかし芥川道章は、東京府の土木課長になった人で、下町に広い土地を持つ旧家であり、芥川が憎んで書いたほど貧困ではなかった。
そこに、芥川の歪んだ劣等感がうかがわれる。
更に芥川は自らの出身である中流階級に対しても劣等感を抱いたが、これは学習院出身の白樺派に対する劣等感であった。

若き日の芥川にとって、学校という所は無意味そのものにしか思えなかった。
それは「無用の小知識」を学んだ興味のない場所に過ぎなかった。
二十歳の頃の芥川は、秀才肌の真面目な学生であった。
一高の寄宿寮に入って一年間を過ごすが、寮生活には順応できなかった。
しかしこの頃の読書欲は猛烈で、学内図書館、帝国図書館、神田の本屋街、丸善二階の洋書部へ足繁く通い、本の世界による経験こそが、現実以上に現実的であると考えるに至る。



それはある本屋の二階だった。
二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。
モオパスサン、ボオドレエル、ストリンドベリイ、イプセン、ショウ、トルストイ、・・・・・
そのうちに日の暮れは迫りだした。
しかし彼は熱心に本の背表紙を読み続けた。
そこに並んでいるのは本というよりもむしろ世紀末それ自身だった。
ニイチェ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、・・・・
彼は薄暗がりと闘いながら、彼等の名前を数えていった。
が、本はおのずからもの憂い影の中に沈みはじめた。
彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。
すると傘のない電燈が一つ、ちょうど彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。
彼は梯子の上にたたずんだまま、本の間に動いている店員や客を見下した。
彼等は妙に小さかった。
のみならずいかにも見すぼらしかった。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」
彼はしばらく梯子の上からこういう彼等を見渡していた。・・・・・・

「或阿呆の一生」



芥川は在学中「帝国文学」に「羅生門」を発表し、二四歳の時夏目漱石の門下となる。
翌大正五年「新思潮」に「鼻」を発表して漱石から激賞され、文壇への道は開かれた。
大正七年二月二七歳の芥川は、跡見女学校に在学中の塚本文子と結婚し、養父母と共に鎌倉に住むこととなる。
三月、大阪毎日新聞社社友となるが、
「その契約書は後になって見ると、新聞社は何の義務も負わずに彼ばかり義務を負うものだった。」

二十八歳の時、実父が亡くなり、大阪毎日新聞社の正式な職員となっていた彼は、再び田端の自宅に引き上げ作家生活に専念することとなる。
三十歳になると、大阪毎日新聞社から海外視察員として中国に派遣されるが、これは彼にとっては命取りの引き金になったようである。
中国旅行以来、神経衰弱、胃痙攣などの症状が現れ、健康は次第に蝕まれていく。

<神経衰弱甚だしく睡眠薬なしには一睡も出来ぬ>(十一月二四日蒲田宛書簡)


そして大正十二年芥川三二歳の時、関東大震災が起こったのだ。
この時彼は、大震災の惨状に異常なまでの興味を示した。
酸鼻をきわめた死体が山となった悪夢の如き光景を前に欣喜雀躍する芥川の姿は、死の妄執にとりつかれた幽鬼そのものである。


大震災後まだ幾日も立たないころ、朝鮮人騒ぎのやかましい最中、夜になると、自警団員がドギドギするような白刃を抜いて人を誰何している時、彼(芥川ー引用者註)は提灯と蝋燭とを用意して、川端康成と連れ立ってお女郎の死骸が沢山ころがっているという吉原見物に誘いにきた。
私(小島政二郎ー引用者註)が出ると、家内が一人ッきりになるし、家内はタダの体ではなかったし、私が出渋るのを見ると、
「なんだい、小説家が、一生に二度とないこんな機会を自分の方から逃すなんて、君は無欲だね」
そう言って軽蔑された。

                 小島政二郎『芥川龍之介』より。


芥川と一緒に死骸を見に行った川端は、「芥川龍之介氏と吉原」で次のように当時のむごたらしい様子を描写している。


芥川氏と今君と私ちは、多分芥川氏が云い出されたように思うが、吉原の池に死骸を見に行った。
芥川氏は細かい棒縞の浴衣を着て、ヘルメット帽を冠っていられた。
あの痩身細面にヘルメット帽だから少しも似合わず、毒きのこのように帽子が大きく見え、それに例のひょいひょいと飛び上がるような大股に体を振って昂然と歩かれるのだから、どうしたって一癖ありげな悪漢にしか見えなかった。
荒れ果てた焼け跡、電線の焼け落ちた道路、亡命者のように汚く疲れた罹災者の群、その間を芥川氏は駿馬の快活さで飛ぶように歩くのだった。
                (中略)
吉原遊郭の池は見た者だけが信じる恐ろしい「地獄絵」であった。
幾十幾百の男女を泥釜で煮殺したと思えばいい。
赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いているのは、遊女達の死骸が多いからであった。
岸には香煙が立ち昇っていた。
芥川氏はハンケチで鼻を抑えて立っていられた。
                (中略)
吉原で芥川氏は一人の巡査を捕まえて、帰り路十町余りも肩を並べて歩きながら、いろいろ震災の話を引っぱり出そうとしていられた。

           川端康成「芥川龍之介氏と吉原」より


 
芥川自身もこの時の様子を次のように述べているが、彼の心理はぞっと身の毛がよだつほどだ。
明らかに常軌を逸している。


それはどこか熱し切った杏の匂いに近いものだった。
彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂いを感じ、炎天に腐った死骸の匂いも存外悪くないと思ったりした。
が、死骸の重なり重なった池の前に立って見ると、「酸鼻」という言葉も感覚的にけっして誇張でないことを発見した。
ことに彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だった。
彼はこの死骸を眺め、何かうらやましさに近いものを感じた。
「神々に愛せらるるものは夭折す」
ーーーーーーこういう言葉なども思い出した。

                   「或阿呆の一生」


大正十四年一月、三十四歳の芥川は、自伝的小説ともいうべき「大導寺信輔の半生」を発表したが、健康はすぐれなかった。
下痢・痔・精神異常に悩まされ、三十五歳の七月上旬より、年老いた養父母と別れて鵠沼に暮らすが、不眠症は高じる一方だった。


僕は風呂へはいりに行った。彼是午後の十一時だった。風呂場の流しには青年が一人、手拭を使わずに顔を洗っていた。それは毛を抜いた鶏のように痩せ衰えた青年だった。
僕は急に不快になり、僕の部屋へ引返した。
すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであった。
僕は驚いて帯をといて見たら、やはり僕の腹巻だった。

                                             「鵠沼雑記」


このような幻覚を伴う分裂病質が次第に現れ、関係妄想の病的体験が創作を支配するようになる。
このころでは、肉体の衰弱も著しく、殆ど薬を食べて生きているような有様だった。


彼は不眠症に襲われだした。のみならず体力も衰えはじめた。
何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎、神経衰弱、蔓性結膜炎、脳疲労、・・・・
しかし彼は彼自身彼の病源を承知していた。
それは彼自身を恥じるとともに彼等を恐れる心もちだった。
彼等を、---彼の軽蔑していた社会を!

                                                                             
 「或阿呆の一生」





●ネクラの大将●  芥川龍之介【その三】



昭和二年正月早々に義兄西川豊の家が全焼する。
焼ける直前に莫大な保証金がかけてあったことから放火の嫌疑を受け、傷心の豊は鉄道自殺をしてしまった。
事後の処理に奔走した芥川は、そのことで益々健康を損ねてしまう。

そして五月末には親友宇野浩二が発狂する事件が起こる。
彼の狂態を目撃した芥川は、激しい衝撃を覚えた。
気違いの母から生まれたことが頭にこびりついていた上、

「君や僕は悪鬼につかれているんだね。世紀末の悪鬼というやつにねえ」

との発狂した宇野の言葉もあり、芥川は自らの終末を痛感することとなる。
芥川と一緒に、宇野浩二を病院へ入れた後のことを、広津和郎は小説の中で書き留めている。



「併し可怕(こわ)いね。いつ我々に襲ってくるか解らないからね。」
と秋川(芥川のことー筆者註)は真田(宇野のことー筆者註)の発病以来幾度となく口にした言葉を又繰返した。
             (中略)
「併し芸術家の一生としては立派なものだと思うね。
若しあのままになってしまっても、発狂は芸術家にとって恥じゃないよ。」
暫く黙った後で、秋川は又言った。
「真田もあれで行くところまで行ったという気がするよ。」
自分は秋川の言葉の中に「羨望」に類するような響を聞いた。
自分はやや驚きに似た感じで、彼の言葉に聞耳を立てたーーほんとうにこの男はそう思っているらしい。
少年のような純粋な気持ちで、芸術家の一生とか、芸術家の最後とか云うものに、一つの「響き」を追っているらしい、花の散り際、武士の命の捨てどころーーそれに類するような「美」を求めているらしい。

                                                     広津和郎「梅雨近き頃」



もはや芥川にとって、現実の「娑婆苦の充ち満ちた世界」から逃れる道は、発狂若しくは死を以ってするしかなかった。
発狂に対する恐怖に晒されながらも、美しく死にたいという羨望が、ギリギリの瀬戸際で芥川を支えた。
終極で彼を支えたものは、何と皮肉にも近所で買ったカステラを「風月」の菓子折につめて進物にする家庭の、
まさにその中産階級的「見栄」であった。



 
何ものかの僕を狙っていることは一足ごとに
僕を不安にしだした。
そこへ半透明な歯車も一つずつ僕の視野を遮りだした。
僕はいよいよ最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すじをまっすぐにして歩いていった。
歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまわりはじめた。


                                                                         「歯車」




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