●ASAKUSA LABYRINTH



今日は浅草の十二階について述べてみよう。
当時この近代建築は、多くの文豪を惹きつけ魅了した。

浅草十二階が造られた直接のきっかけは、大阪に九階建ての展望台ができたのを知った江戸っ子が、大阪に負けちゃいられないと、九階よりももっと高い十二階を考えたことによるそうだが、当時にしたら画期的な高さだった十二階の建物は、よっぽど珍しかったとみえて多くの作家がこの建物について述べている。

中でも江戸川乱歩の描写が見事である。

 

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兄は仁王門からお堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋のあいだを、人波をかき分けるようにして、十二階の前まできますと、石の門をはいって、お金を払って『凌雲閣』という額のあがった入口から、搭の中へ姿を消してしまいました。まさか兄がこんなところへ、毎日毎日通っていようとは、夢にも存じませんので、私はあきれはてて、子供心にね、私はその時まだはたちにもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化物に魅入られたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。

私は十二階へは、父親につれられて、一度登ったきりで、その後行ったことがありませんでしたので、なんだか気味がわるいように思いましたが、兄が登って行くものですから、仕方がないので、私も一階ぐらいおくれて、あの薄暗い石の段々を登っていきました。窓も大きくござんせんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴蔵のように冷え冷えといたしましてね。それに日清戦争の当時ですから、その頃は珍しかった戦争の油絵が、一方の壁にずらっとかけ並べてあります。まるで狼みたいにおっそろしい顔をして、吠えながら突進している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられて、ふき出す血のりを両手で押えて、顔や唇を紫色にしてもがいているシナ兵や、ちょんぎられた弁慶の頭が風船玉のように空高く飛び上がっているところや、なんとも言えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線でテラテラと光っているのでございますよ。そのあいだを、陰気な石の段々が、カタツムリの殻みたいに、上へ上へと際限なくつづいておるのでございます。

頂上は八角形の欄干だけで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこにたどりつくと、にわかにパッと明かるくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。雲が手の届きそうな低いところにあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいにゴチャゴチャしていて、品川のお台場が、盆石のように見えております。眼まいがしそうなのを我慢して、下をのぞきますと、観音様のお堂だって、ずっと低いところにありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃのようで、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。

 

                                                     江戸川乱歩「押し絵と旅する男」より

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詩人の金子光晴は、この十二階を

「東京名物の奇妙なすっぽん茸。皮かぶりの陰茎」

とエロチックに歌い、続けて、

十二階の頂上のみはらしのてすりが、風にきしんで、ぎいぎいとゆれる。私は、双眼鏡をかりて展望する。みわたせば、ここからは、屋根、屋根は葱いろがかって薄照り、雑踏は、うごかないほどしずかにみえる。

                                                     金子光晴「浅草十二階」より

 

と表現した。

同じく十二階に登った失意のどん底の石川啄木は、

浅草の凌雲閣にかけのぼり息がきれしに飛び下りかねき

                                                     石川啄木「莫復問」より

と詠んだ。

その十二階も今はもうない。大正12年の関東大震災で、真ん中からポッキリ折れてしまったのだ。

この時の無残な模様を、川端康成はこう記している。

 

古い浅草の目じるし---------十二階の搭は、大正十二年の地震で首が折れた。

私はその頃まだ本郷に下宿住いの学生だった。昔から浅草好みの私は、十一時五十八分から二時間も経たないうちに、友だちと二人で、浅草の様子を見に行った。

上野の山の人々の噂では、

「驚くじゃないか、江ノ島が浮いたり沈んだりしてるって話だ。」

「ほら、あんなに十二階がぽっきり折れちゃってるだろう。見物が大勢登ってたんだから、たまらないや。皆振り飛ばされたさ。今見てきたんだが、瓢箪池にもその死骸が、うぼうぼ浮いてるんだぜ。」

道ばたに卵の箱が沢山置き棄ててあった。私たちはその生卵を、盗むでもなし、もらうでもなし、むろん買うでもなし、六七個も飲んだものだ。

浅草寺境内には避難者が溢れていたが、吉原の遊女や、浅草の芸者が目立って、乱れた花畑の色だった。

                                                       川端康成「浅草紅団」より

 

九月一の大地震によって、浅草は壊滅に近い状態になってしまったのだ。

真ん中より折れて、八階以上が崩壊してしまった十二階は、危険だというので爆破されることになった。

爆破の時の状況がどんなだったか、寺田寅彦は書き留めている。

 

ぱっと搭のねもとからまっかな雲が八方にほとばしりわき上がったと思うと、搭の十二階は三四片に折れ曲がった折れ線になり、次の瞬間には粉々にもみ砕かれたようになって、そうして目に見えぬ漏斗から紅殻色の灰でも落とすようにずるずると真下に堆積した。

ステッキを倒すように倒れるものと皆そう考えていたのであった。搭の一方の壁がサーベルを立てたような形になってくずれ残ったのを、もう一度の弱い爆発できれいにもみ砕いてしまった。

                            (中略)

爆破の瞬間に四方にはい出したあのまっかな雲は実に珍しいながめであった。紅毛の唐獅子が百匹も一度におどり出すようであった。

くずれ終わると見物人は一度に押し寄せたが、酔狂な二三の人たちは先を争って砕けた煉瓦の山の頂上へ駆け上がった。中にはバンザーイと叫んだものもいたように記憶する。明治煉瓦時代の最後の守りのように踏みとどまっていた巨人が立ち腹を切って倒れた、その後に来るものは鉄筋コンクリートの時代であり、ジャズ、トーキー、プロ文学の時代である。

 

                                                   寺田寅彦「LIBER STUDIORUM」

 

これを最後に、あれほど庶民に親しまれた浅草名物十二階は、数々の思い出を人々の心の中に刻んで、跡形もなく消えうせてしまったのだ。

 

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むかしの浅草には「十二階」という頓驚なものが突ッ立っていた。

赤煉瓦を積んだ、その、高い無器用な搭のすがたは、どこからでも容易に発見できた。

どこの家の火の見からも、どこの家の物干からも、どこの家の、どんなせせッこましい二階のまでからもたやすく発見できた。同時にまた広い東京での、向島の土手からでも、上野の見晴らしからでも、愛宕山の高い石段の上からでも、好きに、たやすくそれを発見することが出来た。

「ああ、あすこに。・・・・・・・あすこに十二階が・・・」

で、その、向島の土手から、上野の見晴らしから、愛宕山の石段の上からそれを発見したとき。・・・そのときのそうしたゆくりない歓び。・・・・・・その歓びは、それはとりも直さず「浅草」を発見した歓びだった。・・・・・・あらたかな観音さまをもつ「浅草」を感じえた歓びだった。・・・・・・それほど、つねに、その搭は「浅草」にとっての重要な存在だった。

 

                                                       久保田万太郎「絵空事」より

 

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以上、浅草の十二階について文豪が書いたものだ。




(写真は浅草十二階)

 



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